黒田官兵衛の九州平定の戦い。別府「石垣原の戦い」


「石垣原の戦い」ゆかりの別府史跡マップ

石垣原の戦いをめぐるモデルコースとウォーキングツアー

モデルコース

石垣原の戦いをめぐるモデルコース

「黒田官兵衛と石垣原の戦い」達人ガイド派遣を行っています

黒田本陣・古戦場史跡・大友本陣の主な史跡旧跡等をバス等に乗って周遊できるように達人ガイドの派遣を行います。達人ガイドのみなさんが一緒に貸切バス等に乗り込んで車窓を見ながら、ポイントでは歩きながら史跡旧跡や別府八湯の説明を行います。 
ガイド料:ガイド1名につき5,000円
特別達人ガイド1名 10,000円(鎧着用のガイド)
参加料:参加者1名につき500円(お茶・おやつ付き)
小学生250円     

ご予約は、別府市観光協会0977-24-2828(平日)まで

石垣原の戦いをめぐるモデルコース

「黒田官兵衛と石垣原の戦い」
ウォーキングツアー

石垣原の戦いをめぐるモデルコース

黒田本陣周辺コース

  コース名:「黒田官兵衛と石垣原の戦い」達人ガイド散策
  開催日:毎月第3土曜日(お盆・年末年始除外あり)  
  出 発:午前10時 実相寺山頂集合(雨天荒天時中止)
  所 要:約2時間
  費 用:大人700円 小学生350円 
      幼児無料(お茶+おやつ付)
  定 員:なし(最少催行1名)
  主 催:別府八湯達人ガイド部会
  予 約:別府市観光協会 0977-24-2828
      ※2日前までに要予約です。           
  コース:実相寺山頂(細川陣所跡)~犬の馬場(時枝陣所跡)
      ~(稲尾和久記念館)休憩~旧実相寺跡~旧肥前街道
      ~吉弘神社(解散)
  駐車場:実相寺山頂付近に無料駐車場あります
  

石垣原の戦いをめぐるモデルコース

「石垣原の戦い」のできごと

黒田官兵衛(如水)

織田家豊臣家の家臣として、
・備中松山城の水攻め
・本能寺の変の後の中国大返し
・薩摩の島津義久の攻撃に対する大友宗麟から豊臣秀吉への要請による九州征伐(1586年)
などで活躍し、天正15年(1587)年7月、豊前6郡を拝領。1588年より中津城築城を開始。

天正17年(1589年)

家督を黒田長政に譲り隠居。
その後も豊臣秀吉の側近として支える。
1598年豊臣秀吉死去。

慶長5年(1600年)6月

徳川家康、上杉景勝討伐。黒田長政は徳川家康と共に出陣。
黒田如水(官兵衛)は中津で留守を守る。
石田三成の挙兵の情報を知る。
黒田長政が兵を連れて会津に向かったため、中津城の兵力が非常に少ないことから、中津城の蓄財を大量に放出、兵をかき集める。

慶長5年(1600年)9月9日

約9000の兵を連れ豊後へ。

慶長5年(1600年)9月10日

豊後高田城到着。城主竹中重利に参戦を促す。竹中重利は息子の竹中重義と兵を差し出す。
杵築(木付)城が大友軍から攻撃されているという情報を聞き、先発隊(井上・野村隊)兵力3000人を派遣。

慶長5年(1600年)9月11日

先発隊(井上・野村隊)は陥落寸前の杵築(木付)城を援軍。大友軍を撤退させる。
先発隊(井上・野村隊)と杵築(木付)城の守備隊は大友軍のいる別府へ。

慶長5年(1600年)9月12日

黒田本隊は安岐城の熊谷直盛を攻撃するも途中で中止。その後杵築(木付)城経由で、別府へ向かう。

慶長5年(1600年)9月13日

先発隊(井上・野村隊)は、別府の鉄輪(かんなわ)山に結集、立石へ。
大友軍と対峙、黒田先発隊と大友軍との戦闘が始まる。黒田軍が勝利。
夜、黒田本隊(黒田如水)が別府に到着。実相寺山に陣を構える。

慶長5年(1600年)9月14日

黒田如水、軍議を開き大友軍攻撃の策を決定、首検分。大友義統降伏。

慶長5年(1600年)9月17日

再び国東の安岐城を包囲。19日に降伏させる。

その後、国東の冨来城も降伏。
そのまま、大分県南や福岡県東部の城を攻め落とし豊前、豊後の2カ国を配下に収めた。

その後も福岡、熊本と勢力を広げながら、立花宗茂(柳川)、鍋島直茂(佐賀)、加藤清正(熊本)らと4万の兵力で島津討伐に向かい、11月12日に熊本県水俣まで到着。
が、徳川家康と島津義久(薩摩)との和議成立。徳川家康よりの停戦命令を受け、軍を解く。

慶長9年(1604)年

黒田如水、死去

黒田官兵衛進軍ルート

大友義統(よしむね)

1953年(文禄2年)

豊後1国の大名だったが、朝鮮出兵「文禄の役」での敵前逃亡として改易、約400年続いた大友家の豊後の支配が終わる。大友義統はその後、水戸に流される。

豊臣秀吉の死(1598年)後、恩赦され水戸から各地を転々とするも、

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦いで西軍側となる増田長盛より大阪(大坂)にて屋敷を与えられる。

関ヶ原の戦いにて西軍側総大将となる毛利輝元より、西軍への加担を勧められる。
嫡男の大友義乗を徳川家康に預けていたことから、当初は東軍への加担を決めていた大友義統であったが、豊後1国を再び与えるという条件で、西軍への加担を決める。

豊臣秀吉の息子、豊臣秀頼より槍や鉄砲などを引出物を与えられ、多くの浪人を召し抱え豊後の国へ向かった。

慶長5年(1600年)9月9日

船にて別府浦に上陸、別府の立石村に陣を張る。

慶長5年(1600年)9月10日夜

大友軍の吉弘統幸が杵築(木付)城を攻撃へ

慶長5年(1600年)9月11日

大友軍は杵築城二の丸まで侵攻し、杵築城陥落間近に。しかし黒田軍の先発隊の接近情報を知り、大友軍は別府市立石まで撤退。

慶長5年(1600年)9月13日

大友軍、石垣原にて黒田の先発隊と戦闘開始するも、黒田軍の勝利。大友軍、敗軍をまとめて立石に戻る。大友軍の吉弘統幸、戦死。

慶長5年(1600年)9月14日

大友義統、大友家とゆかりのある母里太兵衛(もりたへえ) を通じて降伏を申出る。
その後、大友義統は常陸国宍戸に流罪に処された。

慶長15年(1610年)

大友義統死去。
その後大友家は、石垣原の戦いの前に徳川家康に預けられていた大友義乗が継ぎ、大友家は旗本として徳川家に召し抱えられた。


黒田官兵衛とは

黒田如水像・大分県立博物館蔵

秀吉の天下統一を支えた
天才軍師・黒田官兵衛

天文15年(1546年)、播磨(はりま)国(姫路)で生まれ、戦国から江戸時代前期にかけて活躍した軍師・黒田官兵衛吉高(くろだかんべえよしたか)。

軍略や外交面でたぐいまれな才能を発揮し、太閤(たいこう)・豊臣秀吉の参謀として天下取りを1番近くで支えました。

「中津城」を築城後、家督を嫡子(ちゃくし)・黒田長政に譲り、隠居後に「如水」と号しました。

慶長5年(1600年)9月、「石垣原の戦い」で大友軍を撃破。
別府市内には、合戦ゆかりの史跡が数多く点在しており、官兵衛の足跡が今も残っています。


黒田官兵衛吉孝(よしたか)の
鮮烈な生涯

天文15年(1546年)

播磨(はりま)国(姫路)に、小寺氏の家老黒田職隆(もとたか)の嫡男(ちゃくなん)として生まれる。

永禄10年(1567年)

家督を継ぎ、姫路城代となる。

天正6年(1578年)

摂津国を織田信長から任されていた有村城主・荒木村重(むらしげ)が信長に離反。荒木村重の説得のため有村城(兵庫県伊丹市)に向かうも捕縛され幽閉。
翌年救出される。

天正9年(1581年)

因幡国の鳥取城(鳥取市)攻め。兵糧攻めを行う。(豊臣秀吉の第2次鳥取城攻めに加わる)

天正10年(1582年)

備中高松城(岡山市北区)攻め。水攻めを行う。途中、本能寺の変。中国大返し。山崎の戦い。

天正11年(1583年)

大坂城築城に際し、普請奉行(ふしんぶぎょう)となる。キリスト教の洗礼を受ける(洗礼名:ドン・シメオン)。

天正13年(1585年)

四国征伐。

天正14年(1586年)

九州征伐の先鋒を務め、豊前国(福岡県東部・大分県北部)に侵攻。

天正15年(1587年)

7月 豊前6郡を拝領。入国し領内の検地を始める。
10月 宇都宮重房(しげふさ)を中心に豊前の国人が蜂起。
11月ころ 長岩城(大分県中津市耶馬溪町)の野仲鎮兼(しげかね)を攻める。
12月 下毛(中津市)の諸城を攻め落とし一揆鎮圧。

天正16年(1588年)

正月 中津城(大分県中津市)築城開始。
4月 場内にて宇都宮重房(しげふさ)を討つ。合元寺(ごうがんじ・大分県中津市)にて宇都宮重房(しげふさ)の兵300人が討たれる(赤壁寺)。

天正17年(1589年)

家督を嫡子(ちゃくし)黒田長政に譲り、自身を黒田如水(にょすい)と号す。

天正18年(1590年)

小田原城攻め。

慶長4年(1599年)

この頃、中津城下にイエスズ会のレジデンシア(駐在所・布教機関)を設置。

慶長5年(1600年)

9月 石垣原(大分県別府市)の戦い。関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)の戦い。
官兵衛軍は中津より豊後(大分県中部・南部)に向けて出陣。石垣原(別府市)にて大友軍を撃破。その後も破竹の勢いで九州全土を支配下に置く寸前まで攻め続けるも、徳川家康からの命令にて停戦。
黒田長政、徳川家康より関ヶ原の戦いでの功労が認められ、豊前国(福岡県東部・大分県北部)から筑前国(福岡県中部・西部)52万石への移封。それに伴い黒田如水も福岡に移る。

慶長9年(1604年)

京都にて逝去(せいきょ)。葬儀は博多の教会で行われる。
墓は崇福寺(黒田家菩提寺・福岡県博多区)にある。